
心理的契約とは、契約書には書かれていなくても、社員が会社との間に「会社は自分にこうしてくれる」「自分も会社にこう応える」と認識している、相互の約束や義務のことです。
たとえば、「成果を上げれば評価してもらえる」「経験を積めば成長の機会が得られる」といった期待が、心理的契約に含まれます。
こうした約束が果たされていないと感じると、会社への信頼や仕事への満足度が下がり、離職を考える気持ちにつながることもあります。
この記事では、心理的契約の意味や種類、「不履行」と「違反」の違い、職場への影響、企業ができる対応について分かりやすく解説します。
目次
心理的契約とは
心理的契約とは、社員が会社との間に「会社は自分にこうしてくれる」「自分も会社にこう応える」という約束があると考えている状態を指します。
雇用契約書のように明文化された契約ではなく、採用時の説明や上司とのやり取り、これまでの会社の対応などを通じて形成されます。
心理的契約という考え方は、1960年に組織心理学者のクリス・アージリス(Chris Argyris)が用いたことが始まりと言われています。その後、複数の研究者によって発展し、1989年にはデニス・M・ルソー(Denise M. Rousseau)が、心理的契約を「会社との間で交わされた約束や義務について、本人がどのように捉えているか」という個人の認識として整理しました。
取引的契約とは|給与や待遇などの重視
取引的契約とは、給与や賞与、手当など、仕事の対価として会社から受け取るものを重視する心理的契約です。
たとえば、「目標を達成すれば賞与に反映される」「特定の業務を担当すれば手当が支給される」と会社から説明され、社員もそれを前提に仕事をしている場合です。
この場合、約束された報酬が実際には支払われなかったり、説明なく条件が変わったりすると、社員は「約束が守られていない」と感じます。
関係的契約とは|信頼や長期的な関係の重視
関係的契約とは、給与や待遇だけでなく、会社との信頼関係や、長く働いていく中で得られる支援や成長の機会などを重視する心理的契約です。
取引的契約が「この仕事に対して、この報酬を受け取る」といった分かりやすい条件を中心とするのに対し、関係的契約では、「会社は自分を大切にしてくれる」「自分も会社に長く貢献していく」といった長期的な関係が重視されます。
たとえば、「経験を積めば新しい仕事に挑戦する機会をもらえる」「困ったときには会社や上司が支えてくれる」と社員が考えている場合です。こうした期待は、採用時の説明だけでなく、日々の上司の対応や人事制度、これまでの会社の対応を通じて少しずつ形成されます。
心理的契約「不履行」と「違反」はどう違う?
心理的契約の研究では、「不履行」と「違反」を区別して考えます。どちらも約束が守られなかった場面に関わる言葉ですが、意味が異なります。
「不履行」は、社員が「会社は約束を守っていない」と判断することです。たとえば、採用時に「成果を上げれば昇進の機会がある」と説明されていたのに、実際には機会が与えられず、理由の説明もなかった場合、社員が「話が違う」と受け止めた段階が不履行にあたります。
「違反」は、その不履行を受けて「裏切られた」「大切にされていない」と感じ、怒りや失望、不信感といった強い感情が生じることを指します。
つまり、「約束が守られていない」と認識するのが不履行で、そこから強い感情が生まれるのが違反です。不履行があっても、必ず違反につながるわけではありません。会社から事情の説明があり、社員がその理由に納得できれば、強い怒りや裏切られた感覚には至らないこともあります。
参考:組織科学/日本企業における心理的契約の探索的研究―契約内容と履行状況、企業への信頼に対する影響
参考:組織科学/心理的契約の違反と人的資源管理システムの変革戦略
心理的契約が破られるとどうなる?
心理的契約が破られると、社員の仕事に対する気持ちや、会社との関係に影響が表れます。「会社は約束を守ってくれる」と考えていたのに、実際の対応がその期待と大きく異なれば、仕事への満足感や会社への信頼が下がり、「この会社で働き続けるべきか」と考えるきっかけにもなります。
心理的契約の不履行に関するメタ分析では、仕事満足度や組織への愛着、会社への信頼、離職意向、周囲への協力行動などとの関連が確認されています。
仕事への満足度や組織への愛着が低下する
心理的契約が破られると、社員は「この会社は約束を守ってくれない」と感じるようになります。評価や支援、成長の機会について期待していた内容と実際の対応が大きく違えば、仕事そのものだけでなく、会社に対する気持ちにも影響します。
たとえば、「成果を上げれば新しい仕事を任せる」と説明されていたのに、何年たっても機会が与えられず、その理由も説明されないケースです。このような状態が続けば、仕事への満足感が下がり、「この会社に長くいたい」という気持ちも弱くなってきます。
心理的契約の不履行に関するメタ分析でも、不履行は仕事満足度や組織コミットメントの低下と関連していました。つまり、約束が守られないことは、その仕事への不満だけでなく、会社そのものへの愛着を弱める要因にもなります。
会社への信頼が失われる
心理的契約が破られると、会社への信頼も損なわれます。
社員は、会社から示された説明や方針を前提に働いています。そのため、会社が以前と違う対応をしたり、約束していた支援を突然打ち切ったりすると、「この会社の説明はどこまで信じてよいのか」と感じるようになります。
たとえば、育児や介護との両立を支援すると説明していた会社が、制度変更について十分な説明をしないまま利用条件を厳しくしたケースです。社員にとっては、制度そのものの変更だけでなく、「これまで聞いていた話と違う」という点が不信感につながります。
日本企業を対象にした質問票調査でも、心理的契約の履行・不履行と企業への信頼との関係が確認されています。海外のメタ分析でも、心理的契約の不履行は、会社への信頼の低下と関連することが報告されています。
離職意向が高まる
心理的契約が破られると、「この会社で働き続けたい」という気持ちが弱まり、転職や退職を考えるきっかけになります。
とくに、評価や昇進、成長の機会、雇用の安定など、将来に関わる約束が守られなかった場合は、「この会社に残っても期待していた働き方はできない」と感じるようになります。
心理的契約の不履行に関するメタ分析でも、不履行と離職意向との関連が確認されています。
心理的契約が破られることは、社員が会社を離れたいと考える要因の一つとなり得ます。
参考:組織科学/日本企業における心理的契約の探索的研究―契約内容と履行状況,企業への信頼に対する影響
参考:Personnel Psychology/The Impact of Psychological Contract Breach on Work-Related Outcomes: A Meta-Analysis
心理的契約を損なわないために企業ができること
心理的契約を守るために大切なのは、社員の期待にすべて応えることではありません。会社がどこまで約束できるのかを明確にし、その説明と実際の対応をできるだけ一致させることが重要です。
採用時に聞いていた仕事内容と実態が違う、評価の理由が分からない、将来のキャリアについて期待を持たせたまま説明がないといった状況は、「約束が守られていない」という受け止めにつながります。
心理的契約の不履行に関する2026年のメタ分析では、517件の研究をまとめた結果、不履行は仕事満足度、組織への信頼、ワーク・エンゲージメント、組織コミットメントなどの低下と関連していました。日本企業を対象とした研究でも、心理的契約の履行・不履行と企業への信頼との関係が確認されています。企業側には、採用時の説明、人事評価、上司との日常的なやり取りまで、社員に伝えた内容と実際の対応に大きなずれを生じさせないことが求められます。
採用時に実際の仕事内容や働き方を正確に伝える
心理的契約は、入社前の採用活動の段階から形成されます。求職者は、求人情報や面接で聞いた仕事内容、働き方、評価、キャリアなどの説明をもとに、「入社すれば、このように働ける」と考えるからです。
そのため、採用時には会社の良い面だけを強調せず、実際の仕事内容や働き方をできるだけ正確に伝えることが重要です。「若いうちから重要な仕事を任せる」「希望する仕事に挑戦できる」「残業はほとんどない」と説明していたのに、入社後の実態が大きく異なれば、社員は「聞いていた話と違う」と感じます。
仕事内容だけでなく、勤務の実態、配属の考え方、評価の仕組み、キャリアの選択肢なども、実際の制度や運用に沿って説明する必要があります。入社前の期待と入社後の現実との差を小さくすることが、心理的契約の不履行を防ぐうえで重要です。
2025年にホテル業界の新規入職者104人を対象として行われたフィールド実験では、仕事の良い面だけでなく、実際の仕事内容や働き方も伝える「リアリスティック・ジョブ・プレビュー」が、一定の条件下で「入社前に聞いていた話と違う」という心理的契約の不履行認識を抑える方向に働いたことが報告されています。
会社が期待することと社員が期待することを確認する
会社と社員では、仕事や働き方に対する期待が同じとは限りません。会社は「この役割まで担ってほしい」と考えていても、社員は「今後は別の仕事に挑戦できる」と考えていることがあります。こうしたずれが大きくなると、双方に不満が生まれます。
そのため、1on1や面談では、現在の業務だけでなく、会社が本人に期待している役割や、本人が今後どのような仕事をしたいと考えているのかも確認します。会社側の期待を一方的に伝えるだけでなく、社員が会社に何を求めているのかも聞くことが重要です。
心理的契約は、一度できたら変わらないものではありません。仕事内容や立場、上司、家庭環境などが変われば、会社と社員の間で期待する内容も変わります。定期的に話し合い、お互いの考えにずれがないかを確認することが、心理的契約を損なわないための基本です。
評価や処遇を決めた理由を本人に説明する
人事評価や給与、賞与の結果だけを伝えても、本人は「なぜこの評価になったのか」「自分の成果はどのように見られたのか」を十分に理解できません。特に、社員が「成果を上げれば評価される」と考えていたのに、想定していた結果にならなかった場合は、その理由を具体的に説明することが重要です。
たとえば、評価が前回と変わらなかった場合でも、「売上目標は達成した一方で、今回はチームへの貢献や業務改善も評価項目に含まれていた」と説明されれば、本人は何を基準に判断されたのかを確認することができます。
心理的契約の不履行に関する2026年のメタ分析では、不履行は手続き的公正や対人的公正の低さと関連していました。また、日本の雇用関係を扱った研究でも、評価や処遇について、結果だけでなく決定までの過程の公平性や納得性が重要だと指摘されています。評価や処遇を決めた理由を本人に説明することは、会社の判断を理解してもらううえで欠かせません。
昇進やキャリアについて曖昧な約束をしない
昇進や異動、キャリアについて、まだ決まっていないことを確定した話のように伝えないことも大切です。
たとえば、上司が「このまま頑張れば次は管理職だ」「数年後には希望部署へ行ける」と話せば、社員は将来の約束として受け取ることがありますが、実際の昇進や異動は、本人の評価だけでなく、組織の人員配置やポストの状況などにも左右されます。
そのため、確定していない段階では、「昇進の候補になる条件」「異動を希望する場合の手続き」「最終的に誰がどのように判断するのか」まで具体的に伝えることが重要です。将来の可能性と、すでに決まっていることを分けて説明すれば、社員が会社の発言を過度な約束として受け取ることを避けることができます。
また、以前伝えていたキャリアの見通しが変わった場合は、そのままにせず、変更になった理由や現在の状況を説明します。心理的契約を損なわないためには、実現できるか分からない期待を持たせるのではなく、現時点で確実に言えることを伝える姿勢が重要です。
ストレスチェックの集団分析から職場の課題を確認する
ストレスチェックは、心理的契約の不履行や違反そのものを判定するものではありません。ただし、心理的契約が破られたことで生じた心理的な負担が、ストレス反応として表れることは考えられます。また、集団分析では、仕事の量的負担や仕事のコントロール、上司・同僚の支援などを確認することができるため、職場全体にどのような課題があるのかを探る材料になります。
集団分析では、「仕事の量的負担」「仕事のコントロール」「上司の支援」「同僚の支援」などをもとに、職場ごとの状況を確認することができます。たとえば、特定の部署で仕事の量的負担が大きい、上司の支援が少ないといった結果を、その部署の業務量や人員配置、マネジメントの状況を詳しく調べる手がかりにすることができます。
厚生労働省は、集団分析の結果を、勤務時間や業務内容、職場体制、作業方法、コミュニケーション、人事制度などの見直しにつなげることを示しています。たとえば、仕事の量的負担が高い部署であれば、残業時間や業務の偏り、人員配置を確認し、上司の支援が低い部署であれば、指示の出し方や相談体制、面談の実施状況などを確認します。さらに、部署ごとの結果を比較したり、社員への聞き取りや勤務実態と照らし合わせたりすることで、どこに負担が集中しているのか、どの職場から改善を進めるべきかを具体的に整理することができます。
参考:International Journal of Contemporary Hospitality Management/Examining the impact of realistic job previews on leaders’ behavioral integrity and newcomers’ psychological contract breach: a multiwave field experiment
参考:経営行動科学学会/心理的契約研究の過去・現在・未来
参考:Journal of Managerial Psychology/Unveiling the origins of psychological contract perceptions: a systematic review of 30 years of psychological contract antecedents research
まとめ
心理的契約は、契約書には書かれていなくても、社員が会社との間に「こうしてもらえる」「自分もこう応える」と考えている約束や義務を指します。
心理的契約が損なわれると、仕事への満足度や会社への信頼が低下し、離職意向や協力行動にも影響が及ぶことがあります。そのため企業には、採用時の説明を実態に合わせること、会社と社員の期待を確認すること、評価や処遇の理由を説明すること、昇進やキャリアについて曖昧な約束をしないことが求められます。
また、こうした問題は個人とのやり取りだけでなく、部署全体の仕事量や上司の支援、職場のコミュニケーションなどに表れることもあります。ストレスチェックの集団分析は、心理的契約そのものを判定するものではありませんが、職場ごとの負担や支援の状況を確認し、改善が必要な部署や課題を見つける材料として活用することができます。
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